タペストリーになりゆくもの

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ストーブ(06/07)

父は社長を辞して以来、出かける時と食事をとる時以外は、決まって書斎にいる。
私にはよく分からないが、この町の歴史などを調べているようだ。
毎日毎日飽きもせず、とは母の言だけれど、そんなことを調べてどうするのだろうとは、私も思う。
市長選に立候補するのだとか、噂だけはあるけれど、本人にその気があるのかは分からない。
けれどその一環なのだと言われれば、さもありなんと言った感じだ。
書斎の襖に手を伸ばして、手をかけられずに、私は一度その手を戻した。
入る前に声をかけるべきだ、と思ったからではない。ただ単に躊躇したからだ。
足元の床板が、きし、と少しだけ音を立てた。
父に会う時は、この家の敷居をまたぐ時よりも緊張する。
この緊張の根源は、この襖の向こうにいる。
康祐さんの顔を思い浮かべる。
私の頭の中の康祐さんは、いつもと変わらない笑顔で「がんばれ」と言ってくれた。
一つ息を吸って、お腹に力を入れて、声を出す。
こうしないと、声が上ずってしまいそうだった。

「お父さん。文香です。少しいいですか?」
「入れ」

短く、太く、暦年の大樹の幹を思わせるその声に、私はもう一度気合を入れなおす必要があった。
襖に手をかけて、思い切って開く。
父は、書斎の文机に向かっていた。黒い縁取りの眼鏡をかけ、老緑色の単衣に身を包んでいる。
文机に、分厚いハードカバーの本が開かれているのが見える。いったい何ページあるのだろう。
私は部屋に入ると、後ろ手に襖を閉め、畳に正座した。

「よく帰ったな」

本から目を離さずに、声だけで父は私を迎えた。

「ただいま……なかなか戻ってこれなくてすみません」

その父の横顔を、うつむき加減に見て、私は頭を下げる。

「便りがないのがよい便りとも言う。泣きついて来ないなら、それなりにやっているということだろう」
「……康祐さんがよろしく伝えてくれと言っていました。仕事が忙しく、同伴できなくてすみませんって」

顔を上げると、父の辞令には答えず、康祐さんからの言伝を口にする。

「……康祐くんは元気かね」

そこで初めて、父はこちらをちらりと横目で見た。
なんだか咎められているような気がして、少し息が詰まる。

「はい……最近は本当に忙しくて、会社に泊まりこむこともありますけど。かえってやり甲斐があると言って張り切ってます……この週末も、康祐さんが仕事の追い込みで、泊り込むと言ったので。こうして帰って来ました」
「そうか。精力的なのはいいことだ。若い者はそうでなくてはいかん」

そう言って一つ頷くと、父はまた、ふいと本のページに目を落とす。
私は軽く息をついた。

「何日いられるんだ」

ちょうどそのタイミングで、父が口を開いたので、見透かされていやしないかと、肝が冷えた思いをした。

「明日一日はいられます。日曜は、午後には戻りたいと思います。康祐さんも、日曜には一度帰ってくると思うので」

早口にならなかっただろうか。たぶん、大丈夫だと思うけれど。
声は少し震えたかもしれない。

「そうか。……ゆっくりしていきなさい」
「はい、ありがとうございます……それじゃあ、失礼します」

父の背中に頭を下げてから、できるだけ静かに立ち上がり、書斎を後にする。
廊下に出て、音の立たないように注意を払いながら襖を閉めると、きしきし鳴る床板を心の中で非難しながら、書斎を離れた。
廊下の角を曲がったところで、大きく息をつく。
全身に入っていた力がすっと抜けるのが分かった。

「何も言われなくてよかったぁ」

私が大学に入ったくらいの頃から、父はあまりガミガミ言わなくなった。
今日だってそうだ。私が不精を謝ると、フォローするようなことを言ってくれた。
きっともう、子供の頃のように手ひどく叱られることはないのだろう。
それでも私はまだ、父の一挙手一投足が気になって仕方がない。
たぶん、私が勝手に私を縛っているのだ。
昔の強い印象を、今の姿にどうしても重ねてしまっている。
この家になかなか帰る気にならないのも、私が一人で遠ざけているだけで……。

「薄情、なのかな」

いつの間にこんなに逃げるのが上手になってしまったのだろう。
私は一つ頭を振って余計なことを追い出すと、佐藤さんの待つ縁側へ向かった。

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