タペストリーになりゆくもの

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夢の外れ



 薄暗い山道を走っていた。草をかきわけながら体をねじこんでいく。木の葉に隠れて月は見えないが、不思議と私の両目ははっきりと、人の気配を感じられない獣道を捉えた。
 息が上がっていた。とにかく一刻も早くここから離れなければいけないという思いがすべてを支配している。内からあふれる思いに突き動かされて、私の両足は次へ次へと急いだ。
 それが悪かったのだろう。踏み出した左足は何もとらえず、私はバランスを崩した。走り続けた勢いのまま道を外れて落ちていく。斜面はなかった。私の落ちていく場所は何もない暗がりで、そこには月の光も届かないようだった。私はどうにか落ちまいと、必死に抵抗した。手や足をがむしゃらに動かして、そこにある何かにすがりつこうとした。しかし手も足も何もとらえることはなく、私の体は闇へと落ちるがままだった。
 だというのに、私は浮遊感に包まれていた。体が軽い。今ならなんでもできるような気がした。私は空を飛んでいた。暗闇に羽ばたいて、何ものにもとらわれず、何ものにも縛られていなかった。そこにひとひらの自由もなくても。
 そこで目が覚めた。

*

「涼子、リボン落ちたよ」
「えっ、うそ」

 颯希に指さされて、涼子は自分の髪に手をやった。さらりと心地よい手触りは、するりと滑るばかりで何も捉えない。今朝結んだはずのリボンがなかった。

「やだ、ほんとだ」

 涼子は辺りを見回した。リボンはすぐに見つかった。体を折って拾い上げる。大きな胸が重力に応じて吊り下がり、短いスカートが腰の動きに合わせて上がる。生地の薄い夏服は、その中に包まれる涼子の豊かな女性らしさをセクシャルに際立てる。涼子の斜め後方で彼女たちと同じように席をくっつけていた男子の一人が、小さな声をあげて身を乗り出したのを、奈桜は目撃した。声につられて、同席していた男子みんなが涼子に注目した。

「涼子、パンツ見えるよ」
「やだっ」

 涼子がリボンを手に取ったのを確認してから、奈桜は忠告した。スカートを後ろ手で押さえ、慌てて起き上がる涼子に、それを見ていた男子たちが舌打ちして正面を向く。そのうちの一人はあからさまに奈桜を睨んでから食事に戻った。

「おら、見てんじゃねーよ! しっしっ」

 颯希も男子の不埒な様子には気づいていたようで、男子を煙たがって手を払った。自分も豊かな乳房を持ち合わせている颯希は、涼子の無防備なところを気にする一方で、そこにアリのように群がる男子には憎悪に近い感情を向けているように思えた。奈桜はため息をついた。

「折るのやめればいいのに」

 奈桜はそう言って、箸を動かす。弁当から唐揚げをとって口に運ぶその仕草は、淀みない清流のようだった。眼鏡にかかるほど伸びた奈桜の前髪は、彼女の視線を隠して表情を分かりづらくしてしまう。そこに秘められた感情を読み取るのは、小学校から付き合いのある涼子にとっても簡単なことではなかった。

「そんなの可愛くないじゃん」

 奈桜の言葉を拾ったのは、颯希だった。奈桜の直接的だがどこに向かっているのか分かりづらい投球を、颯希は真正面から受け止めて力強く投げ返してしまう。他人との折衝を怖れ、親しい友人にも装いのない物言いをできない涼子にとは、この二人の関係はとても強い光を放って見えた。

「スカートは折りたいかなぁ……。みんなやってるし……」

 涼子は愛想笑いを浮かべて、手の平のリボンをつまんだ。輪ゴムの部分が切れて、一本の紐になってしまっている。

「やだぁ、ヒモ切れちゃってる」
「あたしゴムあるよ。あげよっか?」

 颯希はポケットを漁り、飾り気のない紺色のゴムを取り出した。バスケ部の颯希は、部活中はいつも一房に髪をまとめている。激しく運動するとゴムが切れることもあるので、日頃から予備を持ち歩いているようだった。髪をまとめるという目的を重視した粗忽なデザインは、おしゃれを気にしない颯希の性格をよく表していた。

「ありがとー。でもいいや、今日体育ないし、もうこのままでいく」

 涼子は紐の切れたリボンをスカートにしまった。それから少し髪を気にして触りながら、大きなため息をついた。

「最近ツイてないなぁ」
「なに、なんかあったの?」

 差し出したゴムを仕舞いながら、颯希がそのぼやきに反応する。奈桜も涼子に目を向けていた。

「昨日弟が熱出しちゃってさぁ。お母さん看病につきっきりだったの。私誕生日だったのに」
「うわ、そりゃついてないわ。一口食べる? 好きでしょ、クリームパン」

 颯希は食べかけのパンを涼子に差し出した。ちょうど半分くらいまで食べられたパンの断面からは、カスタードクリームがとろりと覗いている。その様子に喉が鳴りそうになるが、涼子は目を閉じて頭を振った。

「嬉しいけどいいよ、さっちゃんそれでも足りないでしょ」
「涼子は優しいねぇ、だから好きよ」
「あはは、ありがと」

 おどける颯希に、涼子は笑い返した。後ろ髪引かれる思いで、涼子の口に消えていくクリームパンから目を剥がす。代わりにというわけではないが、自分の弁当箱に転がるミートボールに箸を伸ばした。

「でも、それだけじゃないでしょ?」

 そこに奈桜が口を挟んだ。颯希も涼子も、驚いた顔をする。

「え、な、なんで?」

 涼子は焦った様子で少しどもった。口元に運ぼうとしていたミートボールが箸を転がり、おにぎりの上に着地する。白いお米に濃密な赤いソースをべったりとつけて、ミートボールはころりと落ちた。

「お弁当、好きなものばっかり。ほんとに元気ないときにするやつじゃん」

 言われて、涼子は自分の弁当に目を落とした。小さなおにぎりにうさぎの顔を刻んだプチトマト、ハートの跡のついたスモークチーズに、ミートボールが3つ。どれも涼子の好物を選んで、涼子自身が入れたものだった。

「なーちゃんには敵わないなぁ」

 涼子は改めてミートボールを口に運んだ。今度は取り落とすことはなかったが、その箸運びは普段からは程遠く、食事を楽しめているのかどうか、傍から見ていると疑問だった。もくもくと口を動かす様にも、もはや元気が感じられない。

「良く見てんなぁ。すげーや。あたしなんてミートボール美味そうとしか思ってなかったよ」

 颯希はそう言って頭に手をやった。それから笑顔のままで涼子に問う。

「で、何があったの?」

 眼鏡の奥の奈桜の瞳と、正面からひたむきに覗き込んでくる颯希の瞳。二つの双眸に見据えられて、涼子は観念したように口を開く。

「笑わないでね。最近よく嫌な夢見るの」

 颯希が噴出した。

「夢ってあんた、小学生じゃないんだから」
「もう、笑わないでって言ったのに!」

 ケラケラと笑う颯希に、涼子は頬を膨らませた。箸を子供のように掴んで持って、ミートボールを突き刺す。

「嫌な夢って、どんな?」

 奈桜は腹を抱えている颯希を無視して話の先を促した。

「あ、うん……場所とかはいろいろなんだけどね、とにかく落ちる夢。走ってて転んだり、滑って止まらなかったりするんだけど、最後はいっつも落ちるの。なんか暗いとこへずーっと」

 涼子は手ぶりを交えて説明する。その手の動きを奈桜は逐一追い、涼子の言わんとすることを理解しようとした。

「そっかそっか、それは怖かったね。だいじょーぶだよー、あたしが受け止めてあげるからねー」

 まだ笑っている颯希が、涼子の頭を撫でた。その手を軽くのけて、涼子はへそを曲げた。

「バカにして……私は真剣に悩んでるんだからね!」
「ごめんごめん、からかいすぎた。」

 颯希はひとしきり笑うと、指先で涙をぬぐった。それから深く呼吸をして椅子に座り直すと、真剣な顔をしてそっぽを向いている涼子に向き直った。

「そりゃあアレだね、夢の世界からはみ出ちゃったんだよ。外側にはなんもないから、どこまでも落ちてっちゃうの」

 そして、夢のあることを言い始める。颯希はこういう夢見がちな話がけっこう好きで、観念的なものを信じているようだった。年相応に占いが好きだ。男子をバカにして、付き合う相手もいない割に恋愛雑誌を好んで読んだ。そういった趣味は涼子と合い、そして奈桜とは合わなかった。

「夢の外かぁ。だから落ちるといつも目が覚めるのかなぁ」
「夢診断だと、落下は不安の表れだって」

 奈桜はスマホを操作していた。どうやら今調べたらしい。

「不安ね。どっちかっつーと夢のせいで不安になってるみたいだけど」

 パンの残りを口に放り込んで、颯希は軽く手をはたき合わせた。机の上に落ちたパンくずやまだ残っていた授業中の消しカスなどを、まとめてパンを買って来た袋に掃き込む。

「あと、追われるっていうのも不安の表れらしいよ。追いかけられたりしてなかった?」

 奈桜がそう訊いたので、涼子は左上のなにもないところに目を向けた。自分の夢の記憶を漁って、心当たりを探る。そこでいつだか見た、山の中を走る夢のことを思い出した。

「そういえば、なんか山の中を逃げてたかも……」
「やっぱり。夢で不安になってるのもそうだろうけど、不安になったから夢を見たっていうのが正解じゃないかな」

 そう結論づけると、奈桜はスマホをしまい込んだ。そして身を乗り出す。

「何か心当たりないの?」
「うーん……? わかんないよ。なんにもないと思うけど」

 涼子は箸を咥えて少し考えたが、思い当たることはないようだった。

「カレシに不満があるとかじゃないのぉ? 社会人でしょ? 忙しいんじゃないのぉ」

 話題に食いついて、颯希も身を乗り出した。涼子は慌てて手を横に振る。

「そんなことないよ! 優也さんはすごく大事にしてくれてるよ。忙しいのに毎日連絡くれるし。この前だってね、飲み会終わってから電話してくれてね、ちょっと声が聞きたくてなんて言ってくれてね」
「あー、はいはい。きいたあたしがバカだった」

 惚気話を始めた涼子の言葉を、颯希は手を払って遮った。颯希は人の恋愛話を積極的に聞きたがるが、それが過ぎると自分から話を切り上げようとするところがあった。涼子と恋人との関係を祝福する一方で、ゴシップとして扱っていて、別れ話が持ち上がるならそれはそれで面白いと思っているようだ。

「お父さんにバレたとか? 秘密なんでしょ?」

 奈桜の声色は、常から抑揚に乏しく感情が読み取りづらい。しかしこれが涼子を心配しての発言だということは、付き合いの長い涼子はもちろん、高校からの仲で比較的関係の浅い颯希にも分かった。

「お父さん鈍いもん、絶対気づかないよ。お母さんは分かってるかもしれないけど……」
「いーなー、あたしもカレシほしー」
「さっちゃんは告白全部断ってるだけじゃん」
「だってさぁ、アイツらあたしの胸しか見てないもん。そういうのはお断り」
「そうじゃない人もいると思うけどなぁ」
「大人な涼子のカレシさんとは違うよ、高校生なんてガキだよガキ。頭ん中セックスしかないって」
「そういうこと大声で言わないでよ……」

 それから少女たちの会話はすっかりピンク色の花を咲かせ、涼子の悩みもうやむやのままに終った。盛り上がる二人をよそに、奈桜だけが一人何か言いたそうに口をつぐんでいたが、二人がそれに気づくことはなかった。

*

 その日涼子は家に帰って、彼氏にメールを送ると机に向かって勉強を始めた。しかしどうにも手につかずスマホばかり見てしまうので、気分転換に部屋の掃除をすることにした。
 小物をたくさんしまっているキャビネットの天板をふきんで拭う。たまに掃除はしているが、あまり頻繁にものを動かさない場所には、どうしてもほこりが溜ってしまっていた。
 空き瓶を利用したインテリアが涼子の趣味の一つだった。髪ゴムやクリップなど、小さなものを入れておくのに重宝した。天板に置かれたそれを持ち上げ、ふきんでさっと拭くと、そこに拭き取れず残ったままの水たまりのようなものがあることに涼子は気づいた。拭き損ねたのかもしれないと思い、もう一度ふきんを走らせるが、水たまりは変わらず残っている。

「あれ?」

 ふきんを強くこすりつけるが、それでも落ちる気配はなかった。除光液が飛んだのかもしれないと思ったが、涼子はとりあえず力任せにそれを擦り落とそうとした。左手に力を込め、ガシガシと精一杯に擦り上げるうちに、右手への意識がおろそかになっていた涼子は、うっかり手を滑らせてゴムの入った瓶を落としてしまった。甲高い音が部屋中に響き渡る。

「あーもうやだ……」

 瓶はバラバラに砕け散っていた。もともとあまり厚いガラスではなかった。原型をとどめていたのは半分ほどで、残りの半分は数えきれないほどの欠片となって床に散らばっている。

「やっちゃった……ツイてないなぁ」

 涼子はしゃがんで欠片を拾い上げた。細かな破片は鋭利に涼子の手を刺激する。涼子はそれを拾い上げるうちに、言い知れぬ恐怖が自分の中に育っていくのを感じた。それが形となって現れるのは、後処理を済ませ掃除を切り上げ、無理にでも勉強を終え、彼氏からのメールを待って、涼子が眠りにつく時だった。涼子は布団に入って天井を見上げ、目をつむろうとした。その時考えてしまったのだ。『もし夢の中で私が落ちた先が硬い地面だったとしたら、私は一体どうなってしまうんだろう』と。涼子はこの不安に取りつかれ、一晩じゅう悩まされながらも、時間が遅くなればなるほど、彼氏にも、友人にも、悩みを打ち明けることができなくなっていった。その日、涼子は一睡もできなかった。



「落下」「空き瓶」「リボン」という三つのお題で考えたお話です。
落ちる夢は、僕が学生の頃よく見ていた夢です。必ず落ちている最中に目が覚めます。ぶつかったことは一度もありません。
それにどんな意味があったのかは分かりません。ただ、僕は今でも絶叫系が苦手です。昔はジェットコースターも硬く目をつぶって嫌な時間が過ぎ去るのを待つだけでした。年を重ねた今では、タワーオブテラーに乗ることはできるようになりました。しかし楽しむ余裕はありません。落ちる瞬間に、あの一瞬ふわっとして地に足のつかない感覚に支配され、息を呑んで何も考えられなくなります。
いつかあれを心から楽しむことができる日が来るのでしょうか。僕次第なのでしょうけれど、今は想像できません。

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