タペストリーになりゆくもの

Une-Maille

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マグカップ



ふわり、と白い影が視界をゆっくりと落ちていった。
どうやら雪が降ってきたらしい。道理でこんなに冷え込むわけだ。
粉雪はゆったりとした速度で地面に向かう。
綿毛のようなそれはビル風に煽られ、歩道から追い出されて道路に吸い込まれていく。
俺は一つ身震いをして、グレーのコートを深く着込んだ。
今夜は本当に冷える。早く帰って暖かいココアでも飲もう。
特に意識したわけではないが、駅へ向かう足は気持ち早く動いていた。
すれ違う人を避けながら最寄の駅を視界に収める。
会社から駅までは徒歩でほんの3分程度の距離だ。会社から駅が見えるし、駅から会社が見える。
いつもならたいしたことのない距離が、今日はなんだか少し遠く見えた。
駅に着くと、定期を改札に通してホームにあがる。
次の電車は22時31分だ。まだ5分ある。
スマートフォンを取り出してメッセージを確認する。
当然だが、何も残っていない。
それどころか、俺が最後に送ったメッセージに既読マークすらついていなかった。
ため息を一つついてスマートフォンをポケットに戻し、返す手で鞄から本を取り出す。
しおりを挟んだページを開き読み始める。
好きな作家の小説だ。
いつもこの作家の著書を読んでいる時は、時間を忘れて没頭することができた。
だが、今日はダメだ。目はつらつらと文字を滑るだけだった。
読み進めるうちにどこまで読んだか分からなくなり、ページの最初に目を戻す。
そんなことを何回か繰り返したところで、先ほどより大きなため息をついて本を閉じた。
ちっとも内容が頭に入ってこない。
うっかりしおりを挟み損ねたことに気づいて、今見ていたページを探す。
ぱらぱらとページをめくると、かろうじて見覚えのある文章を見つけ、きっちりしおりを挟みなおす。
まったくページの進まなかった本を、半ば投げるようにして鞄にしまう。
顔を上げて時計を見ると、22時30分になっていた。
あと1分くらいならと、反対車線のホームをぼんやりと眺める。
ベンチに腰掛けて新聞を読むサラリーマン、スマートフォンの画面をひっきりなしに操作している女子高生、イヤホンを付けて目を閉じているOL、何が楽しいのかバカみたいに笑っている学生の一団……。
そのどれもが、今の俺よりは幸せなのだろうと思えた。

「2番線、電車が参ります。足元の黄色い線までお下がりください」

ホームにアナウンスが響き渡る。遅れて気の抜けたラッパのような音と共に電車がやってきた。
電車はゆっくりと速度を落とし、やがて止まる。間を置かずドアが開いて乗客がぞろぞろと降りてきた。
全員が降りるのを待って電車に乗り込む。車内は暖房と人いきれで暖かい。
コートのえりを少し開くとほぼ同時に、車掌の甲高い笛の音が響いた。すぐにドアが閉じて、ややあって電車はガタン、と動き出す。
片手でつり革に掴まって揺れに抵抗しながら、空いた手でもう一度スマートフォンを取り出す。
ニュースを開いて一通り眺める。どこそこで殺人事件があっただの、火事で住宅一棟が全焼だの、不幸めいた記事がずらずらと並んでいる。
きっとこの人たちよりは俺の方がマシなのだろうな。なにせ、人死にが出たわけでもなければ家が燃えたわけでもない。
ただ妻が帰ってこないだけだ。
そう思えば少し気持ちが軽くなったような気がした。きっと気のせいだけど。
明るい記事に目を移そうとしたところで、アナウンスが俺の降車駅を告げる。
人ごみをかき分けて電車を降りると、また冷たい外気が俺を迎えた。
コートの襟を閉め直しながら、手近な階段を下りて改札を出る。
まっすぐに駅の構内を抜け、足早にアパートに向かう。
とにかく早く家に帰りたかった。
アパートに着くと、運良くエレベーターが1階で止まっていた。すぐさまエレベーターに乗り込んで6階を押す。
独特の浮遊感と共にエレベーターが上昇をはじめ、階数を示すランプが徐々に数字を増していく。
たったの5回、数字が変わるだけだったが、その時間は5分にも10分にも感じられた。
6階のランプが点いてエレベーターが止まる。俺はエレベーターを降りてポケットから鍵を取り出す。
自分の部屋が奥まったところにあることすら、今は少々煩わしく思えた。
少し手間取りながら鍵を開けて、ドアを開ける。
部屋は暗い。一つも電気が点いていないようだ。

「……ただいま」

誰にともなく呟いて、思った以上に落胆した声が出たことに驚く。
どうやら美智子がそこにいることを期待していたらしい。
何も変わっていないのだから、帰ってくることなどないというのに。
手探りでスイッチを見つけ、照明をつけた。廊下の突き当たり、リビングのドアから向こうが暗い。
革靴を脱ぐ。
リビングのドアを開け、照明をつける。食卓には、昨晩食べたカレーの皿がそのままになっていた。
食卓に置きっぱなしになっているエアコンのリモコンを真っ先に手に取り、暖房をつける。
上着を脱いで、ハンガーにかけようかとも思ったが、面倒になってソファの背もたれにかけた。
ネクタイをほどき、Yシャツの袖を捲ってから、カレーの皿を持って台所へ向かう。
シンクに皿を置くと、水切りラックに逆さになっているマグカップを手に取り、棚から粉末のココアを出して中に入れる。

「あれ、なんだよ」

粉はほんの少ししか出てこなかった。
逆さにして振ってもパラパラと零れ落ちるだけで、それ以上はかき集めても大した量にはならないだろう。

「えーと、詰め替えの袋は……」

どこにあるのだろう。台所は美智子の職場だから、どこに何が入っているのか検討もつかない。

「ここか?」

シンクの上の戸棚を開ける。そこには、パスタや蕎麦と言った麺類に鰹節や昆布などの小さなパックが入っていた。
舌打ちをしながら次々と戸棚を開けていく。しかしどこにもココアの詰め替えパックは見当たらなかった。
軒並み戸が開け放たれた台所で、今日一番のため息をつく。

「仕方ない、買ってくるか……」

シャツの袖を戻し、ネクタイを締め直して、ソファにかけたコートをもう一度着込んでから、最寄のコンビニに向かう。
エアコンを切ろうかとも思ったが、帰ってくる頃には温まっているかなと思いそのままにする。
玄関を出るとき、照明を消そうとスイッチに手を伸ばしたが、なんとなく思いとどまった。
徒歩数分の距離だ。玄関くらいはわざわざ消すこともないだろう。エアコンだってつけているのだし。
外に出ると、先ほどよりも少し雪が強くなっていた。今夜は本当に冷えそうだ。
コンビニに向かって歩き出しながら、あいつは寒がって居ないだろうかと、少しだけ考える。
美智子の実家は秋田の田舎だ。大学を出て東京で就職したのを、俺が捕まえた。
職場恋愛の社内結婚だった。上司や同僚にはずいぶん冷やかされたものだ。
一度冬に美智子の実家に挨拶に行ったことがある。年末だった。
クリスマスが過ぎた秋田の町は、どこを見てもこれでもかと言うくらい雪が積もっていて、それは車の屋根も例外ではなかった。
何十センチにも積もった雪を乗せたまま走り出す車を見て、一人で大笑いしたことをよく覚えている。
美智子はもう見慣れたものらしく、周囲の目を集めた俺を「恥ずかしい」としきりに叩いてきたが。
しかしそのおかげで美智子の両親と話している時、それを思い出しては緊張が解れたのだった。
コンビニに着いた。自動ドアが開くと、中から空調のよく効いた暖気が溢れ出す。
コートの襟を開きながら、秋田でのことがさらに思い出された。
そういえば、ああいう雪国の家は断熱がしっかり効いているから、思ったよりずっと暖かかったんだ。
きっと東京の俺の方が寒がっているに違いない。
いつも買っているココアの詰め替えパックを見つけ、レジに通す。
他にも何か買おうかとも思ったが、やめた。
いつもなら美智子に電話してスイーツの一つでも買っていくのだが、今はその必要もない。
コンビニを出ると、うっすらと雪が積もり始めていた。
早く帰ろう。雪道を苦もなく歩けるほど、俺は雪に慣れていない。
部屋に戻ると、玄関の照明が点いているのが外廊下からでも分かる。
美智子が出て行って三日、俺が帰ってくる時は一度もこうして電気が点いていることはなかった。
自分が点けたのだと分かっているから、美智子が帰ってきたとは思わない。
それでも少しだけ、気持ちが浮かび上がったような気がした。
玄関のドアを開け、中に入る。

「ただいま」

誰もいないことはわかっているのだが、なんとなく習慣で、つい口にしてしまう。
仕事から帰った時よりは元気に言えたので、よしとしよう。
コートを脱いで雪を払うと、寒さが身に沁みた。
体を震わせながら靴を脱いでリビングへ向かう。
リビングのドアを開けると、エアコンに暖められた空気がふわっと流れ込んできた。
帰ってきて部屋が暖かいというのはいいものだな。
いそいそとドアを閉め、脱いだコートをソファに投げる。
ネクタイを乱暴にほどき、しわも気にせず袖を捲くりあげながら、ビニール袋を提げて台所に向かう。
戸棚は相変わらず開け放たれていたが、気にせず買ってきたばかりのココアをビニール袋から取り出す。
引き出しを開けてスプーンを掴み、さきほどから置きっぱなしになっていたマグカップにココアを2杯すくって入れる。
お湯を注ごうと魔法瓶のボタンを押したが、カップに半分ほどお湯が入った時点で、魔法瓶は低いうなりをあげるばかりになってしまう。

「おいおい、頼むよ」

魔法瓶のふたを開けると、中身はほとんど空だった。
舌打ちをしながら魔法瓶に水を補充する。どうにも上手くいかない。
俺はただ、早くあたたかいココアを飲みたいだけなのに。
お湯が沸くのに5分、10分かかるだろうか。とても待っていられない。カップにはもうお湯が半分も入っているのだから。
開け放たれた戸棚から小さな鍋を取り出して、少しだけ水を注ぐ。
その鍋をコンロに置くと、つまみを捻って強火にかける。
水が少ないのもあって、すぐにお湯は沸騰した。火を止めてカップいっぱいにまでお湯を注ぐと、残ったお湯もそのままに鍋をコンロに戻す。
お湯がたっぷり入ったカップからは、白い湯気が沸き立っている。
だまになっているココアの粉をスプーンでかき混ぜると、カップの中が薄く茶色がかっていった。
役目を終えたスプーンをシンクに放ると、いそいそとカップを口に運ぶ。

「っち!」

舌先に鋭い痛みを覚えて、思わずカップを手放してしまった。

「――あちぃ!!」

その直後、高い音と共に、痛みが足先にまで飛び越えてきた。
慌てて靴下を脱いで放り、蛇口を捻って水を出す。
ココアのかかった足をあげてシンクにつっこみ、水流に晒した。

「くそ! やっちまった!」

その段になってようやく、自分が熱々のココアをそのまま口に運んだことに気づく。
台所の床にぶちまけられたココアを見て、一つ舌打ちをする。マットレスにもだいぶ染み込んでしまっている。
落としたマグカップは、取っ手が折れてただのコップのようになっていた。
そのカップに大きく、特徴的な書体で描かれた“K”の字が躍っている。

「あ……」

それを見て、我に返る。
“K”は、の浩二のKだ。まだ結婚していなかった頃、美智子と二人で買ったイニシャル入りのマグカップだった。
美智子のマグカップには、美智子の“M”が刻まれている。
ひりつく痛みが治まるのを待って、俺は脚を下ろす。
カップの本体と取っ手を拾い上げて、シンクにそっとそれらを置いた。
ずっと大事にしてきたのに、こんなことで割ってしまうなんて。
頭に上った血が、少しずつ降りてくるのが分かった。
台所を今一度ぐるりと見渡してみる。開け放たれた戸棚が、ところ狭しと並んでいる。
頭をぶつけなかったのが不思議なくらいだった。
床には薄茶色の液体が広がっている。薄緑と白を基調とした台所のマットレスを、その液体が侵食している。
まだほのかに沸き立つ湯気が、ココアの熱さを物語っていた。
そしてシンクには、お湯の少し残った鍋と、昨日食べたカレーの皿と、金箔で“K”と彩られたマグカップだったものと、支えるものを失った取っ手が空しく転がっている。

「何をやってるんだ、俺は……」

俺は手すりに下がっていたハンドタオルで足を拭き、そのまましゃがんで床のココアをふき取る。
白いタオルが茶色く染まった。
タオルをそのままにして一度立ち上がる。無意味に開放されている戸棚を全て閉めると、タオルと、脱ぎ散らかした靴下を拾い上げ、汚れてしまったマットレスと一緒くたにして廊下に向かう。
洗濯機のフタを開けて、ぐちゃぐちゃに丸めた洗濯物を放り込んだ。
フタを閉めて振り返ると、ソファに投げ捨てるようにしてかかっているコートが目に入る。
情けない。きちんとハンガーにかけて仕舞おう。
ソファまで歩み寄り、コートを手に取ると、満足に雪を落とさなかったからだろう。コートは少し湿っていて、ソファにも僅かながら水滴が落ちていた。
これでは仕舞っておけない。少し干さなくては。
コートを手に持ったままクローゼットに向かい、戸を開けてハンガーを手に取る。コートの袖にハンガーを通すと、開けたままの戸にそれを引っ掛けた。
朝になれば乾いているだろう。
台所に戻ると、シンクに置かれている“K”のカップと取っ手を改めて拾い上げた。
すっかり二つに分かれてしまったカップ。
二人で買った時のことが脳裏を過ぎる。
美智子はカップを墓まで持っていくと言っていた。あれから5年経ったが、美智子の方は今でも傷一つつけたことがない。
俺も一つ誓わされた。ずっと美智子を大事にすると。式を挙げた時にも神に誓った。
“病める時も健やかなる時も。死が二人を分かつとも。汝は妻美智子を愛することを誓いますか。”
あの時誓ったことを、俺は守れているのだろうか?
……早くカップを直さないと。
幸い割れ口は綺麗なものだ。これなら接着剤で問題なく、くっつくだろう。
割ってしまった事実は変わらないが、直らないものではないはずだ。
このカップを直したら、美智子の実家に電話をしよう。
美智子は電話に出てくれるだろうか。出てくれないのなら、こちらから向かうしかない。
幸い明日は休日だ。新幹線のチケットは、今からでも間に合うだろうか。
カップを持って行こう。割ってしまったことを怒られても仕方ない。俺の不注意なのだから。
もう一度やり直してくれと、土下座してもいい。
それで美智子が戻ってきてくれるなら、そのくらい安いものだ。



フリーノベルとして公開している『マグカップ』の前進。初めはカクヨムさん、少しして小説家になろうさんにて公開させていただいていました。
公開時(上記の文章)から少し加筆し、ゲームとして焼き直しをしました。僕がもう一度文章を書こうと心に決めて動き出せた作品で、また初めてまともに感想をいただけた思い出の一作です。
ゲームにするにあたって何度も何度も加筆し、文章で表現しきれないところを絵や音に頼り、なんとか形にしました。

浩二と美智子の苗字は一度も出て来ませんが、太田と言います。また、美智子の旧姓は細部と言います。ゲームにしても一度も登場しなかったので、ここで軽く触れておきます。

 

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