タペストリーになりゆくもの

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鏡(三村と八雲)

「こんな話を知っているかい?」
「ん?」

いつも通りのある日のこと。
斜陽が棚引く夕暮れの部室で、八雲はそう口火を切った。
紅がかった本のページから顔を上げて、横を向いて椅子に座る八雲を見る。
八雲は厳しい西日を背中に受けて、本に目を落としたままだった。

「昔、中国に唐という国があった。その二代目の皇帝はとても良い王様で、部下の言うことによく耳を貸す仁君だったそうだ」
「ふぅん」

大して大事な話でもないのかなと思い、僕は本を読み直そうとあごを下げる。
その拍子に、前髪の先から汗が滴った。
汗は玉となって本のページに吸い込まれ、小さなシミを作る。
僕はワイシャツの袖で汗をぬぐい、どこまで読んだかなと文章を追い始めた。
下を向く僕の耳に、八雲の流暢な語りが届く。

「その皇帝の部下の一人に、魏徴と言う者が居た。とても頭の良い人で、かつ勇気のある人だった。彼は自分の首がかかっているというのに、皇帝に何度も諫言を繰り返した。実際、彼の奥さんと一緒に毒を飲めと言われたこともあったそうだよ」
「そうなんだ。それはひどい話だね」

そう返事をしながらも、僕の関心は読んでいる本の内容に向いていた。
この本は、ハズレだ。表紙で期待したのが間違いだった。
主人公がちょっとしたことですぐにへこんで、その度に引きこもるからちっとも話が進みやしない。
シミを作ったって気にならない程度には、僕はこの本を酷評できる。

「しかし皇帝は魏徴を重用し続けた。何度も何度も彼に死を賜りそうになりながらね。魏徴も決して自分を曲げなかった。二言目には『殺すと言うなら殺しなさい』と口にしながら、皇帝を諌め続けた」
「へぇ、かっこいいじゃん」

僕がまともに聞いていないことを知ってか知らずか、八雲の声に淀みはない。
彼女も、ただ言いたいだけなのかもしれない。
それにしても暑い。体が内側から燃えているような気がする。
この長い黒のズボンは、これで日光を集めてくれと言わんばかりじゃないか。
夏休みなんだから、制服なんて着なくてもいいんじゃないか?

「その魏徴が亡くなった時、皇帝はこう言ったそうだよ。『銅を用いて鏡とすれば、衣服の乱れを正すことが出来る。過去を用いて鏡とすれば、国の興亡の理由が分かる。人を用いて鏡とすれば、自分の行いの正否を見ることが出来る。魏徴が死んで、私は一枚の鏡を失った』とね」
「……なるほど?」

話がよく分からなくなって、もう一度顔を上げると、八雲の鋭い視線が僕を捉える。
一瞬暑さを忘れて呼吸が止まる。
八雲は、いつのまにか椅子の背中に右腕を置いて、そこにあごを乗せてじっとこちらを見ていた。
いったいいつから見ていたんだろう……心臓に悪い。

「聞いていなかっただろう?」

八雲はまっすぐ僕の目を見て、問い詰めてきた。
メガネの奥の切れ長の瞳が、僕を責め立てる。

「……聞いてはいたよ。ちょっと頭が追いつかなかっただけで」

呼吸が出来るようになった僕は、視線を少し逸らして、八雲のセーラー服の襟の辺りを見やる。
紺地の生地に、二本の白いラインが入っているその襟は、八雲の頭が影になって、少し暗く見えた。
視界の下の方で、ぶらさげたような八雲の左手にある、開かれたままの本が目に入る。

「三村。君は分かりやすいね」

八雲はそう言うと、体を起こし、本に栞を挟んで机に置く。
それからすっと立ち上がると、僕の額を人差し指でこつんと小突いた。

「嘘をつく時、目を逸らす」

そうして意地悪げな笑みを浮かべた。

「……別に、嘘ってわけじゃ」

僕はまた八雲の顔から目を逸らしてしまう。
聞いていたというのは、半分本当で、半分嘘だ。
耳に入れてはいたが、ちゃんと聞いてはいなかった。
くすりと八雲が笑う声がした。

「じゃあ、私が何を言いたいか分かるかい?」

ふわっと空気が動いて、甘いような、酸っぱいような、もぎ取ったばかりの果実のような香りが流れた。
八雲の行動を目で追うと、八雲はちょうど窓際の机に腰掛けるところだった。
膝まであるスカートの奥が、暗がりとなって視線を誘う。
女の子というのは、ずるいと思う。

「……言いたいこと?」

僕はもう一度目を逸らして、それから目線が下に行かないよう気をつけながら、八雲の方を見た。
八雲は窓のサッシに背中を預けて、窓の外を見ているようだった。
西日を受けた八雲の横顔は、朱に染まっている。
色が白いから、普段とはまるで違って見えた。

「分からないようだから、もう少し説明してあげよう」

そのまま外を見ながら、八雲はそう前置きした。

「人は、人を鏡として生きるのさ。よく言うだろう? 『人の振り見て我が振り直せ』って。他人のしていることは、全て自分がしてもおかしくないことなのさ。同じ人間なのだからね」

一息にそう言って、すっと左手を上げた。人差し指がぴんと伸びている。
その指先は、校庭を指しているようだった。

「たとえば、あそこにサッカーをしている男子がいる。彼らは普段私とは何の関わりもない人たちだ。しかし彼らが、例えばコンビニの前に胡坐を掻いて座るような人だったとして……私はそれを笑うだけじゃいけないということさ」
「……なるほど?」

僕は本を閉じて机に置いた。
言いたいことは分かるが、それはちょっとさっきのとは話が違うんじゃないかと思う。

「三村は、私がここに胡坐を掻いて座ったらどう思う?」

そう口にしながら、八雲はこちらを向いて、実際に机の上であぐらをかいて見せた。
スカートの奥に光が射しそうになって、しかしそれはほんの一瞬で、八雲の白い足が前面を覆う。
僕は自然と吸い寄せられた視線を恥じて目を伏せながら、

「はしたないなと思うよ。あと、パンツ見えそう、とも」

八雲を責めるようにそう忠告した。
八雲はくすくすと笑って、足を戻すこともせず、

「そうかい。それは失礼した」

まるで謝る気のない口振りで、謝罪の言葉を告げる。
からかわれている。僕は八雲から顔を背けた。

「それに、八雲はあぐらかいたりしないだろ」

顔はそのままで、横目で八雲を見やりながら、僕は言葉を続けた。

「そうだね。普段はそうだ」

八雲は足を崩した。その時に、また奥が見えそうになる。
今度はなんとか視線を送らずに済んだ。

「でも、私もそういつも、普段通りではいられない。あまりいい例えではないが、例えば妹が交通事故にでも遭えば、さすがの私も平静ではいられないだろうね」

八雲は再度、窓の外を見た。
机から投げ出された足が、力の抜けただらんとした体が、なんとなく、弱々しげな印象を与えてくる。
そうすると、表情まで気弱に見えてくる。
八雲に限ってそれはない、と一つ頭を振るった。

「ひょっとしたらパニックになるかもしれない。そんな時、三村は私を叱ってくれるだろうか?」

窓の外に目を向けたまま、八雲は僕に質問を投げかける。
弱々しげな印象は捨てきれない。しかし、八雲は強い女性だ。これまで一度も、動揺したところすら見たことが無い。
まだからかわれているのだろう。僕は肩をすくめた。

「八雲がパニックなんて、想像できないな」
「……そうか」

すっと、流れるような動作で、八雲は僕を見据える。
その目は、なんだか責めるような鋭さを持っていた。

「私は寂しい人間かな?」

その瞳のまま、八雲の口が詰問に動く。
暑いからではない汗が、首筋を伝うのが分かった。
僕は、怒られていると感じながら、どうして彼女が怒っているのか分からずにいた。
直線的に向けられる刃のようなその瞳を、受け止めきれずに視線が泳ぐ。

「……僕はそういう風に思ったことはないよ」

どう答えるのが正解か迷いながら、否定しておく。
肯定するべき質問の内容ではなかったはずだ。
八雲はさらに目じりを吊り上げると、

「そうかい」

ふいと顔を逸らした。
それきり黙ってしまう。

「…………」

沈黙が流れる。
じっとりとした暑い夏の風が、夕暮れの部室に吹き込んできた。
校庭から、楽しげに騒ぐ学生の声が、その言葉の意味を失って届く。
八雲は目を細めてその声の源を眺めていた。
僕は首筋を伝う冷たい汗を、ワイシャツのそでで乱暴に拭った。
なんだか分からないが、八雲を怒らせてしまったらしい。
それだけは分かった。

「……何を怒ってるんだ?」

しばらく考えても理由が分からず、結局僕はそう質問することしかできなかった。
八雲は校庭から視線を外さずに答える。

「別に、怒ってなどいないさ……怒るとしたら、自分にだよ」
「……?」

余計に意味が分からない。
自分に怒っているのに、僕を責めるのか?
それとも、僕を責めていると思ったのが勘違いだったのだろうか?
八雲は分からないところの多い人種だが、今日は飛びぬけて僕の理解の範疇を超えていた。

「なんだか分からないけど、僕は八雲のことが好きだよ」

分からない時は、自分の気持ちをぶつけるに限る。
八雲と二年一緒にいて学んだことだった。
そして二年間、棒に振られ続けている気持ちだった。

「……それはもう、聞き飽きたよ」

八雲は礼儀的に僕と視線を合わせて、悲しげに笑う。
僕は負けじと強気に笑う。

「僕は何度だって、言い飽きないんだけどね」

肩をすくめて、

「残念ながら、手ごたえが無いもので」

“おてあげ”のポーズをとってみせた。
八雲はくすりと笑ってから、

「私は、子供は相手にしない主義だからね」

窓から離れて、自分の低位置に戻った。
そして本を開いて、読み始める。
話はおしまいということだろうか。

「自分だって子供じゃないか」

子供扱いされたことも、話は終わりだと言いたげな態度も気に入らず、僕は八雲を攻撃する。
詰問するような語調になってしまった。
詰問しているのかもしれない。

「私が子供なのは否定しないよ。今しがたそれを恥じていたところだからね」

八雲は汗一つかいていなかった。本から顔もあげない。
本を追う目の動きに合わせて、少しだけ首が動く。
柔らかそうな髪の毛が、重力に合わせてさらりと流れた。

「しかし、私が子供だと言うのと、君が子供だと言うのは、別問題なのさ」
「……何が別だって言うんだ?」

意味が分からず質問する。
今日はこんなことばかりしている。
八雲は一つため息をついて、本を閉じた。
そしてこちらに向き直り、まっすぐに僕の目を見る。

「二年もあったら、素直に諦めて他の人に目を向けるのが、大人というものじゃないか?」

その切れ長な瞳は、やっぱり僕を責めているように思えた。

「だからいつも言ってるじゃないか。他に彼氏でも出来れば諦めるってさ。でも八雲はずっと作らないだろう?」

僕はそれを真っ向から受け止める。
確認の意味を持った問いかけを、八雲が否定しないのを確認してから、

「それなら、僕の可能性は消えてない。諦めるにはまだ早いよ」

何度となく口にした文句を、また口にする。
八雲のまっすぐな瞳を受け止めながら、その瞳の奥をのぞきこむようにしながら。

「……だから子供だというんだよ」

八雲は目を伏せた。
そして僕から目を背けて、本を開く。
八雲の長いまつげが目を惹く。

「八雲の言うことは、分からないよ」

言葉を投げかければ、この横顔はこちらを向いてくれる。
僕はそれを知っていた。
八雲はさきほどより大きくため息をついて、今度は本を閉じずに、顔だけをこちらに向けた。

「三村は馬鹿だと言うことさ」

それだけ言うと、すぐにまた視線を落としてしまう。

「馬鹿は嫌いか?」

僕はもう一度こっちを向いて欲しくて、言葉を投げかけた。
しかし八雲は、もうこっちを見てくれなかった。

「困ったことに、嫌いじゃないんだ」

ともすれば聞きこぼしてしまいそうな呟きをして、八雲は自嘲気味に笑った。



お題でお話を書き始めた最初期の作品で、まだ三題噺というスタイルも確立していなかった頃です。
三村裕二と八雲由利という二人のお話。作中に登場する魏徴は実在の人物です。僕は太宗(李世民)が好きで貞観政要をよく読んでいるのですが、その中に数多く登場する部下の一人です。
元は敵の配下だった人物ですが、歯に衣着せぬ物言いや聡明さを買われ、太宗が臣下に取り立てました。その後も魏徴は太宗の間違った行いをはっきりと否定する発言を繰り返し、その発言に対して褒美をもらうことも多かったと言う人物です。
敵から寝返ったというとても不確かな立場で諫言を繰り返す魏徴の精神的なタフさも、臣下からの諫言に深く感謝し褒美をとらせる太宗の上に立つ人としての矜持も、僕の理想とする関係の一つです。八雲は僕のそういったものに対する憧れから生まれました。

同じ「鏡」というお題でもう一つ、学生時代に書いたお話の焼き直しをしましたが、そちらで三村が名前だけ登場します。
また、八雲が主人公のお話はまだ書いていませんが、頭の中ではできあがっています。そこでは八雲が誰かのお姉さんであることを示唆するつもりです。
こういった、世界の中でほんの少しだけ繋がっていることを示す人間関係が僕は好きです。

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