タペストリーになりゆくもの

Une-Maille

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みゃあ(01/03)

うだるような熱い日差しが、少し汚れた窓越しに降り注ぐ。
遅めの梅雨を迎えて七月に入ると、冷夏だ冷夏だと騒がれていたのが嘘だったかのような熱風が吹くようになった。
衣替えを迎えても冬服を手放さなかった真美が、もう限界と夏服を着始めたのが先週のことだ。
真美は肌の白さを売りにしている。出来れば帽子とマスクを着用したいくらいだが、それは校則でも禁止されているし、さすがの真美でも耐え切れるものではなかった。
おしゃれは我慢。そう思って極力肌を出さずにいた六月は、控えめに言って地獄のようだった。
冬はいい。どれだけ着ても許される。肌を出さずにいることと快適に過ごすことが、綺麗にマッチングしている。
だけれども。夏はダメだ。とにかく露出を要求される。地球が真美に肌を焼けとプレッシャーをかけてきている。
夏服の袖をつまんで、ちらりと自分の二の腕を見てから、真美はため息をついた。
少し制服焼けしている。日焼け止めは毎日塗っているが、100%日焼けしないものではない。
これでも清楚系美少女で通しているのだから、こんなものが残っては地球と夏に負けたようなものだった。
これでは意中の男を落とそうなどというのも、夢のまた夢なのではないか。
自分の努力が足りないとは思いたくないけれど……。
もう少し頑張れたかもしれないと、真美は思う。
来年はなんとか肌を露出しない服装を考えてみよう。
そうすれば、この清楚系美少女を前にして顕微鏡などを覗き込んでいる朴念仁にも、少しは真美の存在をアピールできるかもしれないと思った。

「センセ、さっきから何してるんですか?」

真美は、下敷きをうちわ代わりにして自分を扇ぎながら、生田に声をかけた。
生田は顕微鏡から目を離し、左脇に置いた眼鏡を手に取る。

「先週、次の授業で実験をするって言ったでしょう。その準備ですよ」

眼鏡をかけて真美の言葉に答えながら、生田は右の脇に置いた鉛筆を手に取った。
そして開いてあったノートに何やら書き始める。

「わ、これそうなの? なになに、なにするんですか?」

その言葉を聞いて、真美は背もたれもない簡素な椅子から身を乗り出す。
真美は基本的に勉強は好きではない。特に生物の授業は大嫌いだった。
真美は動物が好きだ。しかしそれはあくまで愛玩対象としての好意であり、その組成や成り立ちなどには興味がなかった。
究極的に言えば、その動物が何を食べるかとどうすれば喜ぶか、それと何をしてはいけないかが分かりさえすればいいのだ。
しかしそんな真美でも、実験は楽しい。自分の行動に対して明確に反応があるというのがいい。
写真や文章でよく分からない知識を詰め込まれるいつもの授業などとは比べ物にならなかった。

「秘密……と言いたいところなのですが、もうここまで見せてますしね」

生田は人差し指でぽりぽりと頭をかいた。
鉛筆を置いて、真美の座っているものと同じ、四足の椅子から立ち上がり、

「見てみますか?」

そう言って顕微鏡を指差す。

「見る見る! あ、見ます!」

真美は勢いをつけて椅子から立ち上がる。木製の椅子は、がたがたと振り子のように揺れた。
顕微鏡前の椅子に座りなおすと、お尻にほんのりと温もりを感じる。
先ほどまで生田が座っていた椅子なのだと意識して、真美の頬にさっと朱が差した。
軽く頭を振って邪念を追い払うと、真美は顕微鏡を覗き込んだ。

「見えますか?」

生田の声が近い。耳元で喋っているのかもしれなかった。
邪念が再度真美を襲う。しかもそれは、さきほどより幾分手ごわくなっていた。

「ちょ、ちょっと待って。ピントぜんぜん合ってないよ。センセ近眼すぎ」

視力検査で2.0未満の数字を出したことのない真美にとって、眼鏡が手放せない生田の度は強すぎる。
真美はレンズを覗いたまま調節ねじを回し、ピントを合わせる。

「……蒲原さん」
「わっ!? なっ、なに!?」

すると、生田が真美の頭と右手首をつかんで、顕微鏡から引き剥がした。
突然のことに動揺した真美は、目を白黒させている。

「あなた、一年の時にも顕微鏡は扱っているでしょう?」

生田は真美の頭からほっぺたへと左手を移し、軽くつまんだ。くいと力を込められて、真美は生田の方へと向かされる。
生田は真美の顔を覗き込むようにして、眉根を寄せていた。

「あえ、は、はい。使いました」

真美は間近に迫る生田の顔をまっすぐ見ることができずに、中空に視線を彷徨わせる。
その頬が紅潮していたのは、暑い夏の日差しのせいばかりではなかった。
生田は真美の様子に気づいた風もなく、ひとつため息をつくと、真美の頬と手首を静かに離して、代わりに人差し指をぴっと立てる。

「問題です。あなたは今、間違いを犯しました。さて、それはなんでしょう?」
「えっ!? 間違い!? どこが!?」
「それが問題ですよ」

真美がうろたえると、生田はくすりと笑った。
生田の笑顔は珍しい。真美が口元が緩みそうになるのをこらえていると、生田はすぐに表情を硬くしてしまった。
問題とやらに正解すれば、また笑ってくれるだろうか。
真美はうなり始める。

「なんだろー、あたし何か間違えたかなー?」

心当たりはない。去年の授業の時だって、真美は同じように操作した自信があった。
では、去年の時点で既に間違えていたということになるのだろうか。
それはあってもぜんぜんおかしくないな、と真美は思う。
真美は勉強が苦手だ。正しい手順というものを、正しく覚えている自信はこれっぽっちもなかった。

「わかんないよー、ヒントちょうだいヒントー」

真美は目を閉じて腕をだらんとたらし、ぷらぷらと揺らしてみせた。
白衣のポケットに手を入れ、じっと真美の考えるのを待っていた生田は、それを見てポケットから手を出す。

「しょうがないですね。じゃあヒント」

そう言って人差し指を立てて、

「……の前にまた問題です。はい、ここはなんというでしょう」

くいっと顕微鏡に向けた。
真美の視線がその指先を追う。
生田の指は、顕微鏡の筒の部分を指していた。対物レンズのついた、ひときわ大きな部分だ。

「えっと……接眼レンズ?」

真美はとりあえず、覚えている単語を口にする。
接眼レンズと、対物レンズと、プレパラート。真美が覚えている顕微鏡に関する引き出しは、このくらいしかない。
しかも名称と部位がほとんど一致しない程度の引き出しだった。

「それはここ」

生田の指がさっと"接眼レンズ"を指す。それはさきほどまで真美が覗き込んでいた場所だった。

「そっか~、君が接眼レンズか~」

真美は指の先でつんつんと接眼レンズをつつきながら、得心がいったという風に息を漏らした。
一方の生田は、大きなため息をつく。

「あなた、去年何を学んだんですか……確かにテストは散々でしたけど、復習とかしないんですか?」
「え? なんで家でまで勉強しなきゃいけないの?」
「……」

生田はさらに大きくため息をついて、まだ"接眼レンズ"を指したままだった指で、真美の頭をこつんとついた。
それからもう一度さきほどの筒の部分を指差す。

「ここは"鏡筒"です。調節ねじを回すと、ここが上がったり下がったりします。これは分かりますね?」
「もー、センセあたしのことバカにしすぎ。さすがにそのくらい分かるって!」

真美はけらけらと笑った。
今しがたやってみせたばかりのことではないか。そう言わんばかりだった。
生田は相手にせず、言葉を続ける。

「じゃあ、この鏡筒。ずっと下げたらどうなりますか?」
「下げたら……?」

生田が指を上下に振る動作を、真美はつぶさに目で追っている。
その指が一点を指し示して止まったので、真美はその先に視線を移した。
生田の指は、顕微鏡の台を指している。

「あっ」

真美はそれでやっと気づく。

「下にあたっちゃう!」

弾かれるようにして生田に目を向ける。

「正解」

生田はまた指を上に向けて、くるくると回した。

「はい、それじゃあ何が悪かったのか、どうすればよかったのか考えてください。制限時間は30秒」
「えぇ!? 短くない!?」

真美は悲鳴を上げるが、生田は顔色一つ変えない。

「もうヒントは十分あげましたから。25秒」

左手の腕時計に目を落とし、カウントする。

「わー! 待って待って考えるから!」

真美は頭を抱えた。

「3、2、1、0。はい、時間切れです」

秒読みを終えて、生田は左腕を下ろした。
そしてうーうーとうなっている真美を見る。

「ぶー。だから短すぎだってば」

真美は顔を上げて口をとがらせた。視線と表情で生田を非難している。

「正解は、『鏡筒を下げる時は、必ず横から見ながらやる』でした。スライドガラスはともかく、カバーガラスはとても脆い。指で触っているだけでも割れてしまいます。対物レンズがあたったら、一瞬ですよ。気をつけましょうね」
「はぁい」

生田は意にも介さない。教師然とした態度で口上を述べた。
真美は面倒くさそうに間延びした返事をし、顕微鏡に向き直る。
言われたとおりに横から覗いて鏡筒を下げ、覗き込んでピントを合わせる。
レンズの向こうには、なんだか緑色の丸いものがたくさんあった。
いったいこれはなんなのだろう。

「センセー、なんか丸くてもやもやしてますけどー」

レンズを覗いたまま、真美は声を上げた。

「なんだと思います? それ」

生田の声が、また間近から聞こえた。
真美の動悸が激しくなる。

「え、な、なんだろう。わかんないよ」

暑い部屋がさらに暑くなったように真美は感じた。
気のせいかもしれないが、背中や後頭部に生田の体温を感じる気がする。

「これはね、ウニの卵子ですよ」
「ウニのらんし……」

言われただけでは合点がいかず、真美はオウムになった。
卵子? 卵子というと、保健体育で習った例のやつだろうか。
真美が毎月襲われる謂れのない苦痛は、そういったものが原因だと教わった。
これがそうなのか。私の体にもこんなよく分からないものがあるのだろうか。
そこまで理解すると、真美はなんだか今見ているものが憎らしくなった。
真美の生理は軽い方らしいが、それでも痛みはずしんと重い。真美と生理との付き合いはそろそろ三年になるが、何度経験しても好きになれるものではなかった。
その経験が、ウニの卵子に対しても少なからずの悪感情を植えつけてしまっている。
別にウニの卵子に罪がないことは、真美にだって分かっているのだけれど。

「卵子なんて見て、どうするの?」

半ば投げやりな気持ちで、真美は質問した。

「それを言ってしまったら、当日の楽しみがなくなるでしょう?」
「えー、余計気になるじゃーん」

生田の答える声が遠い。いつの間にか、生田は真美の背後から遠ざかったようだった。
真美はレンズから顔を離し、生田を探す。
生田はちょうど薬品棚から何かを取り出しているところだった。
ラベルを確認すると、くるりと振り向いて、中央の机に置いた。
真美は椅子から立ち上がり、机でなにやら作業をしている生田に近づく。

「それ何?」

生田はビンからスポイトで液体を取り出し、シャーレに注いでいた。

「だから、秘密です」
「えー、センセのけち」

真美の方を振り向きもしない生田に、真美は頬を膨らませて不平を垂らしたが、それでも生田は机に釘付けだった。
真美はつまらなそうに生田の横顔を眺めていたが、ふと真剣な表情になって口を開く。

「ね、センセ。放課後、センセん家行っていい? ……いいですか?」

一瞬の間があって、生田は目を見開いた。鈍い音のしそうな動きで顔だけ真美の方に向ける。
真美と目が合って、生田はすっと視線を泳がせた。

「……ダメに決まってるじゃないですか」

やっとと言った様子で生田がそれだけを搾り出すと、真美は途端に悪戯が成功した時の顔になる。

「何勘違いしてんの、センセ。センセの部屋になんか用ないよ。あるのは庭だよ、庭」

やーらしー、と黄色い声を上げながら、真美が生田から距離を置く。
からかわれたのだと気づいた生田は憮然としながら答えた。

「ああ、そういうことですか。それならいいですけど……あなた、部活はどうするんですか?」
「休むよ?」

事も無げに答える真美に、生田はため息をついた。
そんなにため息ばかりついていたら、空気がなくなってしまうのではないか。真美はそう思ったが、それを口にする前に生田が口を開く。

「許すわけないでしょう。ちゃんと部活の後に来なさい」

生田は腕を組んで、真美を睥睨した。
生田は堅物だ。理由もなく部活を休むことなど許してもらえやしないと、真美にも分かっている。

「それじゃ間に合わないよ。センセも知ってるでしょ、うち門限キビシイんだって」
「それは知ってますけど……」

からかったのがまずかっただろうか。難色を示す生田に、真美は食い下がる。

「ね、センセ。お願い。部活いつもちゃんと頑張ってるよ、一日くらい、いいでしょ?」

両手を合わせて拝み倒す真美を見て、生田は怪訝そうに組んだ腕を解いた。

「どうしてそんなに……今日、何かあるんですか?」

真美は我侭な女の子ではない。悪戯好きで生田を困らせることばかりだが、無理を押してお願いすることは珍しかった。
ゆっくりと両手を下ろした真美の表情が、いつも通りの彼女のものではないことを、生田ははっきりと確認した。

「今日で、ちょうど一年だから……」

元気がない。明確にそう表現できる真美の姿に、その口から出たその一言に、生田は目を細める。

「そうですか……もうそんなになりますか」

一年前のことを思い出しているのだろう。静かになったのは、生田も真美も同様だった。
二人の間に重量を伴った空気が停滞する。
けれどそこには、確かに一握りの温かさがあった。
静寂に包まれた理科準備室に、予鈴が高く響き渡る。
生田はふっと意識を取り戻したように目を開き、まだ静かになっている真美を眺める。

「さ、予鈴が鳴りましたよ。蒲原さんはそろそろ教室に戻ってくださいね」

生田はパンと一つ柏手を叩いて、張りを意識した声を出した。
真美はまだ下を向いていたが、生田の言葉を聞いて顔を上げると、もういつも通りの彼女に戻っていた。

「はぁーい。センセも構ってくれないし、かえろかえろ」

くるりと踵を返して、机を回って廊下へ向かう。
横開きの戸に手をかけて、勢いよく開けると、廊下に一歩踏み出して……踏み出したまま、振り返って生田を見やる。

「じゃあセンセ、放課後お願いね。部活は、ちゃんと出てから来る……来ます」

またね、と口にして、開けた戸も閉めずに上履きを鳴らしていった。
生田は一つ肩から吐息をついて、開けたままの戸を閉める。
がやがやとした廊下の喧騒が、戸を一枚隔てたものに変わると、理科準備室には元通りの静寂が舞い戻ってきた。
ここ一年ですっかり居ついてしまった少女を除けば、これが生田の確かな日常であった。
それを寂しいと感じることに、生田自身が戸惑いを覚えていることを、果たして喜ぶべきか悲しむべきか、それが生田には分からなかった。

「車くらい、出してあげますか」

一人ごちて、生田は出しっぱなしになっているシャーレに向かった。

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