タペストリーになりゆくもの

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有終の夏



 蒸し暑い夜だった。
 夏美は机に向かい、参考書と戦っている。飾り気のない質素なシャープペンシルを、そのノックボタンを音がするほどに噛む。参考書を睨むその表情には、強い意志が感じられた。
 虫たちのざわめきに囲まれる中で、少女は足音を聞いた。少女の部屋の扉をノックする音が響く。

「夏美、勉強はどう? 伯父さんが顔見たがってたわよ」
「……」

 夏美は返事をしなかった。まるで声が聞こえなかったようにガリガリと、ペンを強く噛んだ。

「柊也くんも来てるわよ。アンタ大好きだったじゃないの」

 ガリ、とひときわ強くそれを噛んで、夏美は止まった。止まったかと思うと、そのペンを叩きつけるようにしながら立ち上がる。参考書も広いたままにドアへ向かうと、乱暴に開け放った。
 ドアの向こうでは、母親が眉を広げていた。

「あぁ、びっくりした。急に開けないでよ」
「お兄ちゃん、来てるの?」

 母の文句を、夏美は無視した。

「来てるわよ。早く顔見せて来なさいよ。アンタのこと心配してたわよ……あちょっと」

 母の言葉を最後まで聞かず、夏美は歩き出した。
 母親はその背中を見送ってから、一つため息をついて部屋の電気を消す。机の上のライトスタンドが点けっぱなしになっていることに気づいて、部屋に踏み入った。スタンドの電源を落とすと、月明かりだけが仄暗く照らす部屋を後にし、母はドアを閉めた。机の上には、開かれたままの参考書と、ノックボタンに大きな歯型のついたシャープペンシルが残されていた。
 桐原家の居間は、常にはない騒々しさに包まれていた。日ごろより人数が倍を数える。人の声も酒の量も、なりに及んだ。そこに足を踏み入れて、夏美は少し面食らったようだった。

「お、夏美ちゃん。やっと来てくれたか」

 戸口に立つ夏美を見つけ、伯父が声を上げた。調子のよい声からは酒気がにじみ出ている。頬も紅潮し、テーブルの上では瓶ビールが何本も空になっている。既に出来上がっていることは明白だった。

「伯父さん、久しぶり」

 伯父と挨拶を交わしながら、夏美の視線はテーブルに着く大人たちを見た。父と、伯父と、それから三人目の男性が、一年越しに顔を見る"お兄ちゃん"だった。

「夏美ちゃん、久しぶり」
「久しぶり、お兄ちゃん」

 柊也の顔を見て、夏美は初めて笑顔を見せた。伯父と父の間に挟まれる柊也の向かいに座る。

「夏美ちゃん、勉強どう?」
「平気。でもわかんないとこあるから、後で教えてくれる?」
「あぁ、もちろん。どこ受けるの?」
「明大の経済」

 夏美は目を伏せた。

「あ、そうなの? じゃあ、受かったら僕の後輩だ」

 柊也が喜ぶのを見て、夏美は目を伏せたまま、口の端を上げた。

「おーい、ビールがもうないよ」
「はいはい、今持ってくよ」

 父が台所に向けて声をかけたのを、夏美の後から居間に入って来た母がさばく。母が台所へ消えていくのと入れ替わるようにして、夏美には見覚えのない女性がビール瓶を持ってやってきた。

「もう、おとうさん。飲みすぎですよ」
「いいのいいの、今日くらいは。亜紀ちゃんも飲みなよ」
「私は台所のお手伝いがありますから」
「つれないなぁ」
「これ持ってっちゃいますね」
「おぉ、ありがと」

 女性は伯父を軽くあしらうと、空のビール瓶を手に台所へ戻っていく。
 夏美はこのやりとりに目を丸くした。

「おじさん、今の誰?」
「あぁ、夏美ちゃんにはまだ紹介してなかったな。おーい亜紀ちゃん、もっかい来てくれ」
「もう、今度はなんですか?」

 一度台所に引込んだ女性が、すぐに出て来る。

「亜紀ちゃん、これ貴子の娘。夏美っていうの。仲良くしてやって」

 女性はそこで初めて夏美を見た。年の頃は二十四、五と言ったところだろうか。ちょうど柊也と同じくらいだと、嫌な予感を夏美は自覚する。

「君が夏美ちゃんかぁ。柊也から話聞いてるよ。私亜紀っていうの、よろしくね」
「はぁ……」

 エプロンで拭ってから差し出された手を、夏美は曖昧に握り返した。亜紀は力強く夏美の手を握り、上下に軽く振る。しかしその力強さとは裏腹に、すぐに手を離してしまう。

「もう、こんなに可愛いなんて知らなかったよ。こんな子の家庭教師だなんて。何かあってもおかしくないな~?」
「おいおい、勘弁してくれよ。そんなんじゃないって」

 亜紀と柊也は親し気だった。親し気という言葉で表現できる域を超えていた。

「ホントかなぁ? ね、夏美ちゃん。柊也に何かされなかった?」
「え……何かって……」
「はっはっは、柊也くんに限ってそんなことはないだろ」

 父が言葉を遮った。

「俺も柊也くんなら万が一はないと思って、大事な一人娘を任せたんだから。亜紀ちゃんけっこう疑り深いんだな。柊也くん尻に敷かれるぞぉ」
「ははは……」

 柊也は誤魔化すように笑った。夏美はそれを受けても、はにかむことすらしなかった。

「ごめんね夏美ちゃん。ついてこれないよね。俺と亜紀、もうすぐ結婚するんだ」
「けっ、こん?」
「そう。今年中に。式も挙げるから、夏美ちゃんもおじさんたちと一緒に来てね」
「……」

 夏美はおおきな目をおおきく広げて柊也と亜紀を交互に見た。

「……私、勉強しなきゃ」

 そうして言葉を発したかと思うと、席を立って居間を後にする。

「夏美ちゃん」

 戸口を去る間際、柊也が声をかけた。

「受験、頑張ってね」

 夏美は返事をしなかった。
 部屋のドアを開けると、月明かりに照らされるばかりの薄暗い室内が夏美を迎える。
 夏美は電気を点けず、部屋に立ち入ると、ドアを強く閉めカギをかけた。それから机の上に転がる銀のシャープペンシルを引っ掴み、押し入れを開け放った。押し入れの奥から、自分の顔より大きなブリキの平缶を引っ張り出す。
 "宝石箱"と書かれた箱の蓋を、力任せに引っぺがすと、中からいくつもの小物が飛び出す。夏美は散らばったそれらを苛立たし気に拾い集め、缶の中に放り込んでいく。それから最後に、手の中に握り込んだシャープペンシルを、叩きつけるようにして放り込んだ。
 ペンは勢いのままに缶の中を転がり、小さな花飾りのついたピン留めや、これもやはり花柄の消しゴムに当たって跳ね返り、やがて勢いを失くす。
 ペンの止まったすぐ裏に、カンの底面を半ば覆うようにして、団扇があった。五年以上前の日付で、地元の祭りを印刷したそれには、黒いサインペンで書かれた"とうや"と"なつみ"の文字が、相合傘に囲まれていた。

「うそつき……」

 傘のてっぺん、ハートを象ったところに、玉となった滴が落ちる。

「うそつき……!」

 夏美は腕で荒々しく顔を拭い、缶に強くフタをした。机の引き出しからガムテープを取り出して蓋の継ぎ目を二重、三重に止めていく。それからノートのページを一枚破いて、そこに大きく『封』と書いて缶の蓋に貼り付けた。
 夏美は封の済んだ缶を勢いのまま押し入れの奥に投げ込む。振り切るようにして押し入れの戸を音を立てて閉めると、どっかりと椅子に座り込んで、ペン立てからキャラもののシャープペンシルを手に取った。
 夏美の動かすシャープペンシルの上で、キャラクターはきれいな顔で笑っていた。



「執着」「シャーペン」「団扇」というお題で書いたお話です。
淡い恋の花が散る瞬間。夏の終わりに訪れる乱れ。それはきっと予感していたよりも少し重く、目を逸らすには努力が必要です。幼い心では受け止めるにあまりに無垢なほどに。
大人はいつでも子供を軽んじています。それは子供だからです。大人が思うほど子供は子供ではなく、けれど大人が思うよりもずっとずっと幼いのだと思います。
僕は大人になってしまいましたが、ずっと子供のままです。「大人」や「子供」なんて言葉はただの区分けでしかありません。僕らは一定の年齢を重ねた子供を「大人」と呼び、そこに至らない子供を「子供」と呼んでいます。
そして重ねなくても良い経験を重ねて振る舞い方を覚えた子供を、「大人っぽい」と評します。
社会に生きる術を身に着けることを、大人になると表現するのなら、いつまで経っても人間に苦手意識を持っている僕は、死ぬまでずっと子供なのでしょう。
ただ誠に厄介なことに、僕は人間が大好きなのです。

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