タペストリーになりゆくもの

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出立

 正午を大きく回った公園からは、昼休憩を済ませて立ち去る人影が多い。スーツに身を包んで公園を後にする彼らは、これから午後の業務に精を出すのだろう。吉政はその流れに逆らいながら、苦々しげに彼らを睨んだ。
 公園の中央に位置する噴水をぐるりと巡って、近くに停められた屋台に入る。暖簾をかき分けてクッションのくくりつけられた長椅子に座ると、とりわけ恰幅の良い方ではない吉政の体重でも、年季の入った椅子の足はギィと軋んだ。

「お、いらっしゃい。どうだい調子は?」

 その音に気づいて、屋台の女店主が声をかける。親しみのこもった態度は吉政が常連であることを表していたが、同時に店主の人柄も滲ませる。陰気な雰囲気をまとって挨拶もなしに入ってくる壮年の男性に、能面でない笑顔を振りまくことが出来る女性のようだ。

「聞かなくても分かるだろ。決まってたらこんなとこ来ないよ」

 吉政は店主の顔も見ずにため息をついた。酒が入っているようには見えないが、思春期の少年のような態度をとる。年の頃を考えれば、苦労も多いが充実した人生を送っていてもおかしくない彼は、しかし明日にでも世界が終わればいいと言い出しそうな表情と仕草だった。

「言ってくれるじゃないの。ま、決まれば来ないって言うんなら、来なくなる日を願ってるさ。ラーメンでいいだろ?」

 女店主はそう言うと、返事も聞かないうちにスープをよそい始めた。丼に茶けた液体が注がれる。屋台の外にも漏れ出していたスープの、食欲をそそる匂いが香り立つ。

「いつも悪いね」
「いいのいいの、そんなこと気にしないで。面接の時にお腹鳴ったら恥ずかしいだろ?」

 女店主は次に、麺をゆでる専用の鍋からざるを取り出し、湯切りをする。一直線に麺から飛沫をあげたゆで汁が、公園のタイルに鋭く跡をつけた。二、三度そうした後、スープの入った丼に麺を散らし、ネギやかんぴょうを乗せていく。一連の堂に入った動作から、吉政は片時も目を離さなかった。

「再就職できたら、きちんとまとめて払うからさ」

 吉政の言葉を受けて、女店主はからからと笑った。

「そんなの期待しちゃいないけど、くれるって言うもんはもらっとこうかね。だから決まったら、ちゃんと顔見せにくるんだよ」
「……来るよ。ごめん、ちょっとクサっててさ」
「何をいまさら。初めて会った時なんかもっとひどかったじゃないの。ほい、ラーメンお待ち」

 盛り付けの終わった丼を、女店主は片手で差し出した。椅子に座った吉政の目線より少し高いところで、香りが揺れる。ここからでは見えない器の中の味をよく知った舌が、それに反応して唾液を分泌した。

「サンキュー」

 吉政は丼を受け取ると、ケースから割りばしを取り出した。胸の前でそれを開くが、均質でない力によって割りばしの根本が片側に寄る。不格好な姿になった割りばしを気にした様子もなく、吉政はラーメンをすすり始めた。
 アツアツの麺を吹き冷まして頬張ると、二人の間にしばしの間、沈黙が訪れる。昼間の喧騒を過ぎた公園は静かに時を刻む。火にかけられたスープ鍋の蓋がかたかたと揺れるばかりが、屋台に流れる物音になる。時折屋台の外から聞こえてくる雀の声に背中を押されるように、その沈黙を破ったのは吉政だった。

「おかみはさ、なんでラーメン屋なんかやってんの?」
「なんでって、好きだからさ」

 女店主はカウンターに頬杖をついて、にこにこと笑っている。丼から顔を上げず、ちらりと視線だけでそれを見た吉政は、逃げるようにしてラーメンに目線を戻した。

「あたしのラーメン食って酒飲んで、元気に笑って帰ってくれるのが嬉しくてねェ」
「へぇ。んじゃ俺は良い客じゃないね。いつも辛気臭いし」

 女店主の頬が風船のように膨らみ、店主は大きな笑い声をあげた。カウンターを何度も叩き、大きな腹を抑える。笑いが止まらないようだった。ひとしきり笑ってから、カウンター越しに吉政の肩を叩く。

「自覚があんなら大したもんだよ! それにね、アンタみたいなのがあたしのラーメンを美味い美味いって食ってくれる時がね、あたしは一等嬉しいのさ。屋台やっててよかったって思う瞬間だよ」

 吉政は目を伏せた。叩かれる肩を黙って受け入れる。長年屋台を続ける女店主の力は女性と思えないほど強く、吉政の肩には疼くように痛みが走ったが、吉政はじっと耐えた。

「ふぅん。すごいね」
「なんだい、気のない返事だねェ。自分から訊いて来たくせにさ」

 女店主の言葉に嫌味っぽさはない。いつも笑顔を絶やさない女だった。初めて吉政と出会った時からそうだ。この店主が暗い顔をしているところを、吉政は見たことがなかった。客と店主という関係を鑑みればそれは当然かもしれなかったが、吉政にはどうにもそれがこの女店主の生来の気質であるように思えてならなかった。店主は笑顔を絶やさないまま、なんでもないことのように口を開く。

「でもね、もうやめるんだ」
「え?」

 吉政は聞き返した。

「ダンナがね、転勤でさ。子供も生まれるし、そろそろ潮時かなってね」

 大きな腹を撫でながら、愛おしげに腹を見つめながら、女は告げた。それは吉政が初めて見る、この店主の店主でない時分の顔だった。吉政は少なからず動揺した。この店主に女を感じたことはなかった。異性として意識したことはなかった。大きな腹を見た時も、それはその人が母親になるのだと言うことを示してはいたが、なぜか女性だと認識はできていなかった。吉政は自分がこの女店主のことを、まるで自分の母親のように思っていたことを、この時初めて実感した。

「いつ行くの?」
「十月頭。だから、ここにいられるのも来月いっぱいってトコだぁね」
「そっか……寂しくなるな」

 吉政はうなだれた。ラーメンをすする箸も止まる。親に見捨てられた子供のようだった。女店主は吉政の様子を見て、ことさら明るく笑って見せた。

「だからアンタさ、来月中に頑張んなよ。もうラーメン食わしてやれなくなるしさ。最後にあたしにいい報告聞かせてくれよ」
「あ、あぁ。そうだね、頑張るよ。うん……」

 女店主の励ましの言葉にも、吉政は浮いた表情を見せなかった。女店主はカウンターに手をやり、吉政をじっと見つめた。なんとかと言った様子で動かす割りばしを、麺を頬張って咀嚼する様を、口の中のものを嚥下してお冷を口にするまでを、つぶさに観察するように眺める。そうして意を決したように口を開いた。

「ねェ、アンタさ、コレやってみない?」
「これ?」
 
 吉政が顔を上げる。女店主はカウンターを人差し指でとんとんと叩いた。吉政の表情は疑問から驚愕に変わる。女店主は吉政が理解したことを察して続けた。

「ダンナの配属がさ、東北の方なんだよね。さすがにもってくのも大変だからさ、まるっきり処分しちゃおうかなって思ってたんだけど……」
「ムリムリ、俺ラーメンなんか作ったことないよ」

 吉政は箸を持ったまま、両手を振った。箸先から玉となって雫が飛ぶ。飛んだスープはカウンターにシミを作る。

「一か月ありゃそれなりのモン作れるようにしてやるよ。安心しなって」
「いや、でもなぁ……」

 女店主の言葉に、吉政は乗り気ではなかった。頭に手をやって、ぽりぽりと掻く。その態度に別段怒った様子もなく、女店主は鍋に向き直り、スープをかき混ぜ始める。

「ま、今すぐ決めろってわけじゃないんだ。ちょっと考えてみてくれよ」
「あ、うん……」
 
 その日、その話はそれっきりで、政治がどうの、逃げたカミさんがどうのという話を肴に、吉政はラーメンをすすった。酒も飲まずによくよく酔っぱらってしまったように、吉政はクダを巻いた。ラーメン一杯のスープを空になるまで飲み干して、その後お冷だけで二時間を過ごした。
 女店主は吉政の愚痴に相槌を打ちながら、スープを混ぜたり、お冷を補充したりと、吉政を慰めた。昼下がりの屋台には、他の客は訪れなかった。

 明くる朝、吉政は公園に来て、噴水の縁に座っていた。手にした食パンを、その耳の部分だけを剥がすようにして食べる。中身の白い部分は、細かくちぎっては地面に放った。雀がぴょこぴょこと跳ねながら、そのパンくずに群がる。吉政は笑顔だった。
 雀たちから顔を上げた吉政の視界に、女店主が屋台の準備を始めるのが映る。吉政は立ち上がる。雀たちは慣れた様子で、吉政の足が彼らの間を横切ろうとするその瞬間まで、パンくずをついばんでいた。
 風よけの衝立をつっかえ棒で止める女店主に、吉政は後ろから近づいた。

「おかみ、手伝うよ」
「ああ、ありがとう」

 吉政はこなれた手つきで、女店主から何も聞かず開店の準備を進める。屋台の開店に多大な準備が必要であることを、吉政はこのひと月でよく学んだ。吉政が面接に失敗して腐っている日も、自分でもよく分からないやる気に満ち溢れている日も、女店主は変わらず毎日、屋台の開店に一時間をかけた。吉政が手伝うようになって、その時間は40分ほどにまでなった。

「おかみ、昨日の話だけどさ……」
「うん?」

 長椅子にクッションをくくりつけながら、吉政は口を開いた。カウンターを挟んだ向こうでは、女店主が鍋の準備をしている。

「俺なんかでいいのかな。俺、女房には逃げられたし、娘にももう会えるかわかんない。クビ切られてから仕事も見つかんないし、人と話すのだって全然得意じゃないしさ……」

 女店主はコンロにガスをセットした。ボンベの口を金属が噛み、大きな音が鳴る。吉政は口をつぐんだ。

「でも、ラーメン好きだろ?」

 女店主は満面の笑みで吉政を見た。その笑顔には屈託というものがなく、吉政のあれやこれやと気にしては否定するすべての理由を、まとめて軽く吹き飛ばしてしまう。

「……うん」

 答えるのに時間を要したが、吉政の返事には力があった。ぎゅうと強く結び目を閉める。縄で絞めつけられたクッションの革が、苦しげな声を上げる。

「なら平気さ。好きこそものの上手なれって言うじゃないか」

 女店主は吉政の方を見なかったが、吉政は目を丸くして女店主を見上げた。

「おかみ、ことわざなんて言えたんだ」
「失礼なヤツだねェ。そんな態度じゃこいつはあげらんないよ」

 女店主の左手には、紙切れがあった。手書きの文字がびっしりと書き込まれたそれが、屋台をやっていくにあたって大事なものだろうことは吉政にも一目でわかった。吉政は慌てて立ち上がり、地べたについたスラックスの膝から下を何度もたたく。

「ごめんごめん、真面目にやるって。だから、お願いします」

 それからジャケットの腰元で両手をぐいと拭って、吉政は笑顔で左手を差し出した。女店主は紙切れを持ったまま、その手を握り返す。二人の手の間で、紙切れはくしゃりとしわを作った。

「しばらくは雑用だよ。練習は店を閉めてからだ。いいね?」
「はい!」

 吉政の返事は力強く、高く遠く公園に響き渡る。まだパンくずをついばんでいた雀たちが、その声で一斉に飛び立った。



「再開」「嗜好」「雀」という三つのお題で書いたお話です。
何かに躓いて、膝を擦りむいてしまった人が好きです。立ち上がろうと努力する姿が好きです。きっと誰かの手を借りて、肩を借りて、痛む足を引きずって前に進むことができるでしょう。
この文章を書いている時、僕はまだ三十年生きていません。何度も失敗して挫折を繰り返しました。誰も助けてくれないと思っていました。それは間違いでした。
誰も助けてくれないのではなく、僕が助かろうとしていなかったのです。僕は三十年近くかかってやっと助かろうと思うことができました。
ずっと助けられていたのに、です。そんな当たり前のこと気づくのに、三十年もかかってしまいました。
僕を助けてくれるたくさんの人に、少しでも何かお返しがしたい。いったい何を返せるかは分からないけれど……僕が幸せでいることは、きっとお返しの一つになると思うのです。
だからこのお話は、新しい幸せを見つけるお話でした。これまで培った多くのものを捨て去って、新たな扉を開く門出。
そこには多くの困難が予想されますが、助けてもらえば大丈夫。
いずれ離れて一人で立つ時が来ても、その時には膝の痛みを忘れているはずです。

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