タペストリーになりゆくもの

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カラー

 太陽が高いところから校舎を照らす。縁珠はかろうじてできた校舎の影に身を寄せていた。ハンカチを地面に敷いて、その上に座る。まだ傾き始めていない陽射しは、この時間には校舎裏のアスファルトを冷たく保ってくれている。縁珠はそれをよく知っていた。
 縁珠が膝の上で弁当の包みを開くと、正面の垣根から木の葉の擦れ合う音がする。奥から現れたのは黒い猫だった。引締った肉体と乱雑な毛並みが、野良であることを窺わせる。しかし首元にはプラスチックの覆いが装着されていた。台形の板状のものを、丸めてホチキスで留めてある。非常に粗野なつくりのエリザベスカラーだった。
 黒猫はゆったりと縁珠に近づき、目の前までくると四つ足を揃えた。甘えるように一声鳴いて、尻尾を揺らす。縁珠は弁当を膝に乗せたまま、スカートのポケットから小さな袋を取り出した。『にぼし』と書かれたその袋を縦に裂いた瞬間、黒猫は激しく鳴き始める。

「はいはい、今あげるから」

 縁珠は少量の煮干しを手の平に出し、黒猫の眼前に差し出す。黒猫は縁珠の手が下りて来るが早いか飛びつくようにして煮干しに噛みついた。アゴと頭を小刻みに動かして、咀嚼する。お手製のエリザベスカラーがアスファルトをひっかいた。
 黒猫は煮干しを地面に落として食べようとするので、しょっちゅうカラーをガリガリとやった。縁珠は黒猫が落とした煮干しを丁寧に拾って手の平に乗せていく。黒猫は地面の煮干しを食べきってしまうと、また縁珠の手の中に食らいつく。そんなことを繰り返しているうちに、校舎裏に足音が近づいて来た。縁珠は音のした方を一瞥し、足音の主を確認すると、すぐに目を逸らした。
 それはずいぶんと身体の大きな男子生徒だった。明るく色の抜いた髪を短く切り上げ、露出した耳にはシルバーのピアスが輝く。全身で校則に抗うようなその姿は、スカートも折らず頭からつま先まで隙のない縁珠とは対照的だった。
 男は座り込む縁珠を見下ろして、彼女の背中を跨いだ。縁珠の隣に腰を下ろし、尻をつけずにしゃがみ込む。手にしたビニール袋から、焼きそばパンを取り出して頬張った。縁珠とは一言も交わさずに、パンを咀嚼していく。
 縁珠は男を睨みつけ、そして無視した。黒猫は煮干しを求めて鳴くが、縁珠の煮干しの在庫は既に底をついていた。縁珠はハンカチで手を拭うと、改めて箸を取り出し、食事を開始した。
 しばしの間、二人は黙ってそれぞれに食事を進めた。黒猫はしばらく縁珠を見上げて鳴いていたが、やがて煮干しをあきらめたのか、ターゲットを変えた。男の、膝にかかってだらんと伸びた左手に、頭をこすりつける。男はその感触に目を向けると、無造作に黒猫の頭を撫でた。男が指先で頭を包むようにすると、黒猫は気持ちよさそうに細かく鳴き声を上げる。黒猫が刺激を求めて首を動かすので、男の腕にはエリザベスカラーが頻繁にぶつかったが、男がそれを気にする様子はない。
 男は半分ほどになった焼きそばパンを一口に放り込むと、猫を抱き上げた。ゴロゴロと喉を鳴らす黒猫を可愛がりながら、男が口を開く。

「こないだは悪かった」

 縁珠の箸が止まる。信じられないものを見るように男をしげしげと眺め、口の中のものを飲み込んでから、男の言葉に応えた。

「どういう風の吹き回し?」

 それだけ言って食事に戻る。男も左手で黒猫を撫でつつ、右手だけでビニール袋から新しいパンを取り出した。口を使って袋を開き、それからビニールをめくって露出したパンに食いつく。そして口に物を入れたまま、話をつづけた。

「だから、悪かったって言ってんだよ。いたずらだと思ったんだ」
「……その子は怪我してるの。それつけないとガリガリひっかいて、自分で悪化させちゃうのよ。だから」
「分かった、分かってる!」

 饒舌に語りだした縁珠に、男は口を挟んだ。

「知らなかったんだよ、オレ。クロが怪我してるなんて……元気そうだったしよ、こないだ撫でてて初めて気づいて……」
「……クロ?」

 言い訳をする男の、黒猫の呼び名に縁珠は反応した。男はそれで縁珠が黒猫の名前を知らないのに気づいて、抱き上げた黒猫を縁珠の方に差し向ける。

「こいつだよ。黒いからクロ。かっこいいだろ?」
「……」

 縁珠は目を逸らした。箸を動かして、弁当の中に最後に残った卵焼きを口に運ぶ。その排他的な様子に、男は一つため息をついた。

「……とにかく、悪かった。もう勝手に外したりしねーよ。それだけだ」

 男はバツが悪そうに言うと、食べ終わったパンの袋を握りつぶして立ち上がる。そっと地面に下ろされて、黒猫は物足りなそうな声を上げた。
 来た時と同じように縁珠の背中を跨いで帰ろうとして、校舎の影から出たところで、男は振り返った。

「そうだ、お前なんて言うんだ?」
「……何が?」

 膝にすり寄って来た黒猫を撫でていた縁珠が、首だけを男に向ける。

「名前だよ、名前」

 男は体ごと縁珠に向き直った。縁珠は眉をひそめる。

「知らないの?」
「あ? なんでオレがお前みてーなガリ勉の名前知ってんだよ」

 縁珠は眉間の皺を深くして、視線を落とした。

「そう」

 短く返して、顔を背ける。そのまま何も言わず黒猫を撫でている縁珠に、男は片眉を吊り上げた。

「名前聞いてんだろ、無視かコラ。いい度胸してんじゃねぇか」

 男が肩を怒らせて縁珠に向けて一歩踏み出すと、

「花本縁珠」

 縁珠は自分のフルネームを一度だけ名乗った。男は肩透かしを食らってたたらを踏む。

「エンジュぅ? 変な名前だなおい」
「そうね。私もそう思うわ」

 縁珠は慣れた対応で、猫に構っている。尻尾の付け根を優しくなでられて、黒猫はうっとりと目を閉じていた。

「まぁいいや。オレは」
「平田大吾」

 大吾の名は、縁珠の口から発された。

「あ?」

 大吾は眉を上げた。どうしてお前が知っている、と顔で言っていた。

「有名人よ、あなた。なんにも知らないのね」
「へっ、そうかい。めったに学校来ないヤツの名前なんかよく覚えてんな」

 大吾は鼻で笑う。それからズボンのポケットに両手を突っ込んで、踵を返した。

「じゃあエンジュ、クロのこと頼む。オレかーちゃんに買い物頼まれてんだ、タイムセール終わっちまう」
「ぷっ」

 縁珠が噴出した。肩を震わせている。大吾は立ち去ろうとした足を止めて、縁珠に目を向けた。

「……あんだよ、何がおかしい」
「『かーちゃん』って……そんなデカいナリして……ふふっ」

 縁珠は声をおさえきれない様子だった。

「かーちゃんはかーちゃんだろ」

 大吾は決まり悪そうに頭を掻いた。そしてはっと気づいて、

「そんなこと言ってる場合じゃねーんだった。おい、とにかく頼んだからな。じゃあな!」

 まだ腹を抱えている縁珠を残して、大吾は走り去った。
 縁珠はしばらく全身を震わせて笑いをこらえていたが、それが落ち着くと、弁当を片付け始めた。黒猫はまだ何かを求めているのか、縁珠のそばで座り込んでいる。縁珠が結わいた弁当の包みを手に立ち上がると、黒猫も尻を浮かせ、縁珠の足に顔をこすりつけた。しかし、カラーが邪魔をして上手にできないようだった。
 縁珠はしゃがみ込み、黒猫の頭を撫でた。

「あいつ、私の名前知らなかったんだってさ」

 縁珠は黒猫に話しかける。

「学年一位とか、全国五位とか、あいつにはそんなの関係ないんだね」

 黒猫は分かってか分からずか、答えるように一声鳴いた。

「平田大吾か……」

 それだけ呟くと、縁珠は立ち上がった。黒猫はもう追いすがろうとはしなかった。

「またね、ノワール」

 縁珠は黒猫に手を振って、校舎裏を後にした。黒猫はしばらく誰もいなくなった校舎裏に座り込んでいたが、やがて後ろ脚でカラーをカリカリとひっかくと、尻尾をしならせて垣根へと姿を消した。



「黒猫」「いたずら」「ポーカーフェイス」という三つのお題で書いたお話です。
成績トップの秀才と、学校に来ないことも多い不良の出会い。校舎裏という人の寄り付かない場所で、一匹の黒猫によって二人の人生は結ばれます。
きっとこの猫がいなければ、この二人は互いのことをよく知らず、まともに会話することもなく学校という檻にも似た場所から巣立って行ったでしょう。その時彼らを待つものは、また別の檻なのか、それとも……。
それを決めるのは他でもない自分自身なのだと、この出会いからいずれ学べる時が来ればよいと願います。
校舎のイメージは僕の母校です。通っていた高校の校舎のおぼろげなイメージに基づいています。校舎裏という場所が僕はけっこう好きでした。教員の駐車場にほど近いそこは、縁寿たちの過ごす場所のようにこっそりお弁当を食べられるような場所ではなかったのですが。
校舎の外であり、人のあまり通らない裏手である。自分とほど変わらない年頃の生徒たちの喧騒から一つ隔絶されたところにあった、校舎と校舎の谷間のその空間は、現実を川一つ向こうに置いて来たようで、ひどく落ち着いたのを覚えています。
そういうところにいると、声をかけてくる人がいるのですよね。それを嬉しいと思ったことは、たぶん一度もなかったと思います。僕は好きでそこにいたのですから。
今では声をかけてくれる人に感謝できます。自分が寂しいと感じていること、あの時は分かりませんでした。

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